昭和四十七年五月十六日 朝の御理解
X御理解 代六十八節 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うて はならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかに ありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ 神にうそを言うのも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさ せるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも 大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおり に拝め。」
心に真がなければ神に嘘言を言うも同然じゃと、神様に嘘を言うような信心を私共はしておりはせんだろうか。
折角信心させて頂くのであるから、神様に、これだけは本当な事を聞いて頂かねばならん。神様にここだけは本当のところをう認めてもらわなければならん。
どこまでも真実、いわゆる赤裸々と申しましょうかねえ、どんなに神様にお喜び頂けるようなと言うて、どうぞ神様あなたのお心にかなう一日でありますようにというて願っても、それが只、願い言葉にすぎなかったら、神様にうそを言うてるようなもんです。ですから、むしろそれが、痛いなら痛い、痒いなら痒いという事、実感をそのまま神様へ訴えるような、私は信心が必要だと思う。
それから段々信心がわかってくるに従って、本当ないわゆる神様に喜んで頂けるような事が、もう実感として、祈りもすりゃ行いも出来、本当の信心生活が出来るようになるんだと思うですねえ。
今朝私は、お夢を頂いておった。きれ-いに日本髪を結いあげておられる。もうその方は信心が二十年にもなられましょうか。もうしっかり信心が出来られるから、もうあんなに立派に髪を結いあげられる程しに、髪ものびたんだなあと、そう思うて見よった。そしたら帽子をちょっと上げられたら、それがかつらであった。
何か私はその人の一面を見たよな気がして、お夢の中で、あんなに立派な事を言いよってから、まあだ本なもんじゃなかったばいなあと、私が思いよる。
けれどもそう思うた後にです、又そのかつらの下に、これ位ばかりの髪がのびておるところを頂いた。ははあ、これはもうかつら取りなさらにゃいかん。本当なものが伸びだした。本当のものが出来だした。いわゆる本当な信心が出来だした。
しばらくは見苦しいかもしらんけれども、いよいよ伸び出しておるのであるから、だからかつらを上げよんなさるとばいなあというようなお夢でした。
そしたら今朝から、六十八節を頂きますと、ここで神は嘘言を言うも同然じゃとおっしゃる。折角信心させて頂いておって、もう神様に願うたつもりであっても、その中に真実がなかったら神様に嘘を言うも同様。ですから、それはそれなりにです、幼稚園は幼稚園、小学校は小学校なりに信心をさせて頂いて、そんなら、いつまでも、幼稚園でよいという事ではありません。段々おかげを頂いていかねばならん。
昨日も夜の御祈念に出て参ります前、今頃足が大変痛むのですよね。それでそこをもんでもらいながら、ちゃんと眠ってしまっておった。それでお知らせを頂いて眼を覚ましたところが丁度八時であった。それでまあ、奉仕着をつけてここへ出て来たわけですけれども。そん時に頂く事がね、『酒、海』と字で頂き、次にお言葉でも頂いた。これは私に号を神様が下さったんだと、いろいろ絵を描かれたり、字を書かれたり俳句を作ったりする人は号を持っておられますよね。そういう意味だと私は思いました。これは私が常日頃、祈り願わせて頂いておる事ですし、もう他の事は、なあにも出来んのだけれども、まあ有難くなるという事は、頭がよいから悪いからという事はかかわりがないという事、だから誰でもがそういう意味で日本一を目指せばよいわけである。
もう金光様の御信心は有難うならせて頂く事につきるのだから、本気で有難うならせて頂く事。これはもう、常日頃の願いである。
有難き、勿体なき、恐れ多きと言われる。おみきの事、しかもそれが大海のような広い深い大きな有難いというものにという、私が日頃願っておるところを神様は下さったんだなあと思う。
例えば甘木の初代なんかは号を徳光とおっしゃったですねえ。やはり神様から頂かれたんだと思います。そういう意味で私はこれから、酒、海と名乗る事にした。
大坪、酒海。今日私が皆さんにもう本当に真実でなからなければならない。神に嘘をいうようであってはならないというて、そんならいつまでたっても、同じようなここが痒か、ここが痛かばっかり言うとったんじゃいけんという事。
それがです、これは私の体験ですけれども、信心しておれば一年一年有難うなってくるとおっしゃるが、本当に一年一年有難とうなってくる。いや一年一年どころではなくて、本当言うたら、一月一月、いやもっと厳密に言うたら、日々刻々、有難うなっていく。それを感じる位な信心を頂きたいと思う。
ですから自分の心が有難いという心が段々高度なものになってくるに従ってです、思う事も感ずる事も、又願う事も変わってくるという事です。
ですからどうでも、そこんところを極めていかねばならん。有難くなるという事に ですから、どうでもそこんところを、極めていかねばならん。有難くなるという事に。本当に最近神様に頂く事は、金光教の真髄はもう、ここだと、しかも金光教の信心がどのように素晴らしく、偉大なものであるか、こういう信心を本当に世界の隅々まで進めて行きたい。もうそれを本当に、念願とさせて頂く。
しかもこのような素晴らしい表現で下さるのであるから、これなら誰でもわかるだろう。本当に誰にでもかれにでも聞いて頂きたいと、そんな思いを私させて頂きよりましたらね、神様から『家宅侵入罪になりはせんかな』というお言葉をかる-う頂いた。家宅侵入罪になりはせんかなと、これはね、自分の門戸を開いて、自分の胸襟をひらいて頂こうという気にならなければ、どんな素晴らしい事だって話が話にならないんだと。今私が頂いておる、これは実を言うたら表現に困る事ばっかりなんです最近は。だからそれを当たりさわらず聞いて頂くには随分苦労がいる。
だから相対して、お互いが本当に胸襟を開いて下さったらそんこところを皆さんにも聞いて頂く、大衆の前に立っては話せない程しの事なんです。実を言うたら。
だから本当にどげなこつ言われたっちゃ驚きませんというような人じゃなからにゃ出来ません。いうなら、本当に私に惚れ込んで下さった人でなからにゃ話されない。 そんな素晴らしい事を最近はあるのですよ。あの古川から金光大神言行録が来た時それを茂さんが電子コピ-とかで一冊の本に仕上げて下さってあるのがあるのですよ あれを頂いて、あれをそのまま聞きよったら怪我するような事が書いてあるんですやはり。今だからいいけれども、その当時だったらもう本当に皇室を軽う見たりといったような意味の事が出てくるんですよ。けれども、それが実は今になってみると、真実だという事がわってきたんですよねえ。
その当時頂いた事なんですけれども、あの本(金光大神言行録)の扉のところに『教祖金光大神に惚れ込んだ者以外はこの本を読むべからず」と書いとけと頂いたんです。実はまだ書いてませんけどね。もう教祖金光大神に、本当にあばたもえくぼという位な惚れ込み方の者でなからにゃ、あの本は読まれんて。私が今頂きよるとがそれです。
とてももう、惚れ込んでもろうとる者でなからにゃ言われんという程しの事を、今頂きよるです。これを本当に当たらずさわらずわかってもらえるような事はないかといつも心を腐心しとるわけですけどね。
今日の例えば、こんな素晴らしい事を本当におかげを、人間の幸せになってもらう為には、ここのところをはずしたらおかげにはならんと、もう肝心かなめのここのことろをわからなければという事なんです。ここんところを、段々有難うなってくるに従って、そんなら皆さんが聞かれても、合点がいくようになる。ある意味合いで信心があまり離れておると出来ない。だからそれを例えば、そんなら心を開いてない人に話すのは、家宅侵入罪になりはせんかなと。してみると世の中には様々な宗教がありますよね。家宅侵入罪どころか、それこそもう強引に例えば、この信心をせんと罰かぶるぞと言うて導いてまわる宗教なんかは、もう押し売りですよね。
凄味をきかせて自分の宗教にならないとう罰かぶるとかね、他の宗教は邪教だとか言うて、そしてこの信心せな罰かぶるとか言うのは、それはもう押し売りと同じ事です。だからそういうような、押し売りをしてさらくような品物がよいものがあるはずは絶対ありませんよね。
金光様の御信心で、今合楽で説かれとるところはね、本当に自分が買う気にならなければ、もうそんなら値段も安うして、最高の品物をね、売ってあげれれる状態にあるのが、現在の合楽だと思うですね。そこでお互いの信心内容の有難いというものがです、今朝からお夢に頂いたその事じゃないですけれども、ひとつもう赤裸々に、もう禿頭なら禿頭でいいから、人が笑うなら笑えというところから、そしておかげを頂いて、その生えるはずのないところから生えてくるような、おかげを頂いて、それがふさふさとした髪になって、結い上げられるようなおかげになるところまで、信心を段々進めていかなければならない。
年限がたちさえすればと言うが、信心は決してそうはいかん。本気で私共がその気にならなければ出来ない事。
昨日午後の奉仕をしてる時に、むつやの信司さんがある事をてお伺いにみえられた それで私はその事をあんたどう思うのと。そんな事お伺いする事ばしあるのという意味の事で少し厳しく聞いてもらった。そしてもう信司さん、そこんにきはいっちょ卒業して、もう一段と信心を進めにゃ駄目よと。ちょっと他所に行かんならんと言いよったけれども、今日はもう他所へ行くとはいっとき止めてから、今朝の御理解にあんたの事も出とるけんで、いっちょ、ようと御理解を頂きなさいと言うてから御理解頂きよるうちに、私は波多野さんから頂いとる河野清雲という俳句の先生の句を集めた本なんですけれども、この中から丁度、教典を開いて御理解するような事をお願いして開かせて頂いたんです。そしたらね、こういう句を頂いた。
「ひとはしり、寒ゆるみたる、簷(のき)しずく」。ところが簷しずくの簷という字が何と読むかわからんのです。普通の軒という字じゃないから。それで私がみんなに聞きあわせたけれども知らんとです。それから私が末永さんに字引をひかせたら、普通の字引にはのっとらん。大きい、こんな大きい字引がありますがそれにやっおのっとったと。そしたら、先生これは簷(のき)という字ですよと。
だから信司さんが頂き終わってから、信司さんちょっと来てごらん。今のあんたの事お願いしよったら、こういう事頂いたよと、だからひとはしりという事は、これは寒が例えば春になった。いわゆる早春のところの事だと思うですよね。寒がとけて、しずくになって落ちるという、何とも言えん情景を句にされたもんでしょうけれども御理解で言うとです、寒という事はこれは修行という事。例えばそんなら、お金に困っておるとか、いろいろ難儀を感じてとる時には、今寒中だという事なんです。それには信司さん、ここでどうしても、ひとふんばりしなければ駄目よと私が。
そこに寒がゆるむ、今までよりは少しは楽の道が開けてくるとばい。いうなら、毎日、毎日参っては来る。けども自分の都合のよか時参って来る。そういうこつじゃなくて、そんなら今朝、朝の御祈念に参って来とる。これがひとはしりなんです。ひと頑張りという事。しかも、そういう中から有難いというものがもっと育って、思う事感ずる事が今、あんたが思うこつじゃない素晴らしい事が思えれるあんたにならなきゃ駄目だ。昨日もあんたに言うたように、もう本当に教会の娘を嫁ごにせんならんごと、あんたげはめぐりが深いとじゃけん、それこそ金光様の先生になった気持ちで商売せんのと、私は昨日言うたが、でなかったらね、そういう気分になれないて。
金光様の先生が人が助かる事が出来さえすればであるように、もうお客さんが喜んで下さりさえすればよい、従業員が喜んでさえもらやいい。この生き方を身につけなければ、自分が楽どんしょうごと思うてどうして出来るかというわけなんですけど。 それから私は、これについて次々御理解の御都合に恐れ入ってしもうたわけなんですけれども、その次に久留米の大場さんが、いわゆる二度目のお参りなんです。
今日先生、商用で福岡に参りよりました。そしたら電車の中でふらっとした時にお夢頂いたのが、もう大変なお知らせを頂いた。
それでまあ、その足でこちらへひっくり返って来て、お伺いにみえたわけなんです そしたら私が、この簷という字がわからんから、字引を引いてわかった時の事を頂くのです。お互いが例えば、お夢を頂いた。大変な事のごたるけども、とにかくお願いに行ってお伺いさせて頂こうと言うてここへ来たのは丁度字引を開きに来るようなもので、そこに本当の事がわかる、わかった事でです、その例えば、大変な災難がかかってくるお知らせでした。だからその災難はもうどけたと神様がおっしゃった。
素晴らしいでしょうが。だからこういう難儀な事が起こってくるぞと、そんならこれは明日の朝お参りするけん、そん時お伺いしょうじゃいかんという事です。
いわゆるあなたはここへ、ひとはしりしてきたわけなんです、と言うてそんな御理解でした。丁度私がこの簷という字を知らじゃったけんで字引を引いて、ははあ成程普通の軒でもいかなければ、ひらがなののきでもいかん、やはりこの簷でなければ、この句がこの句にならないように、あんたがこうして二度目のお参りをした、その辺のところが信心のおかげを受けるという、その微妙さ、デリケ-トさ、というのは、只、恐れ入るばかり。成程おかげは心次第であるという事がわかるでしょう。
だからその災難は、払われたと神様がおっしゃった。もう、ひとはしりしてきたから・・・・。わかった事に於いて、成程、横着じゃいかん、わがままじゃいかん、実意を欠いたらいけない事がわかります、信心は。
そしたら今度は、その後に吉井の杉さんが参って来た。福岡からの帰りでございますと。親先生にお茶なっとん頂いてもらおうと思うてから、おいしいお菓子を少しばかりですけど頂いて来たという。私はそれをお供えさせて頂いて、ここ十日ばかり、福岡のお知り合いの方が、結婚されてもう、相当になるけれども、お子さんがない。 それで合楽の事を話たらそんならお願いして下さいというので、毎日お届けがあってるわけです。その事を頂いた。お供えしたり、お初穂したりだけじゃいかんて、どうでもね、おかげ頂かっしゃらないかんから、向こうのその方にね、とにかく、どげん忙しかったっちゃいいから、時間を作ってひとはしり、こちらへおい出なさいと言うて、この、ひとはしりの事から御理解頂いた。そういうこの「ひとはしり、寒のゆるみたる、簷しずく」というのが、四人か五人続きました。この御理解だけでその人が助かるという事が。
しかし、本当にこれはいつもの事ですけど、もう、神様のお働きには恐れ入ってしまうです。そういう働きの中に、お互い信心の稽古をさせて頂いてです、本当に一年一年、まあ本当いうなら、もっとね、克明に有難うなっていく稽古を本気でさせて頂かなければならん。
昨日は夜の御祈念の当番が光昭でした。そしてもう本当に御祈念中に、普通は思わないようないやな事やら、汚い事やらが雲のように心に湧いてくる。
だから神様にそれを、こういう汚いものをお取り祓いを頂きよるとじゃろと思うて御祈念をするといったような意味の事を話とりました。
ある時ある先生が、三代金光様にお伺いされたんですねえ。金光様の前に出て普通は思わないような汚い事が出てくる。やっぱり光昭のそれと同じ事。御祈念しよるともう、それこそ日頃は忘れとるような、いやな事やらがどんどん出てくる。
「金光様これはどういうわけでございましょうか」と金光様のお伺いされたらね、金光様が「めぐりのお取り祓いでございます」とおっしゃった。そこで私の事をその後、話した事ですけれども、私共もやっぱりそうだった。ところがその、汚いものが出てしもうたというわけではないだろうけれども、例えば私は御祈念の間は、もう只有難うして有難うしてという事だけしか心には浮かんでこない。
例えばそんなら、汚い事といったような事でも、その汚いという事自体が、こっちは今では有難うなっておる事であるから、もう有難いものだけしかないんです。
だからそんなら、思う事も祈らせて頂く事もです、例えば、そんなら世界の平和を祈らせて頂いてもですそれがひとっつも神様に嘘にならない程しの祈りが、段々と出来るようになったという事が有難い。
今日は神様に嘘を言うも同然じゃと真がなかったとおっしゃる。その真を実際に、追求していこうという信心、そんなら有難うなっていくというところから、思う事も祈る事も変わってくる。有難うならずに、成程神様に喜んで頂くような、それこそ神様の機嫌とりのような事を言うたところでです、それは神に嘘を言うも同然なのだ。 だから赤裸々でなければいけない。けれどもその赤裸々であってもです、その赤裸々な言うておる事、思うておる事がです、より、いよいよ尊い有難い事に進展していかなければいけない。
私が目指すところ、もう本当に日本一有難い私にならせて頂こうというような気持ちがあるからじゃないでしょうか。そんなら、昨日おそらく私の号にと下さったんだと思う、酒、海という事もです有難い事、大海のごとしというようなね、そういう深い広いものにならして頂こうと私は願っておる。
祈る言葉も又、祈る内容も又変わってくる事は間違いありません。それにはね、いつの場合であっても、一段上に進もうという時にです、一段有難くならせて頂くといういわば姿勢が、ひとはしりだと思うです。ひとふんばりだという事だと思うです。 そこんところをです、大事にさせて頂きながら、いよいよ有難うならして頂き、そしてどのうような素晴らしい事でもそれが実感とし神様に申し上げられる、祈れれる私共にならせて頂きたいと思うですね。
どうぞ。